なめがたヒストリー
~行方市の輩出した大物実業家・大物政治家~
どうもからすです!
なめがたヒストリーを始めていよいよ5年目に入ろうとしています。
実はずっとこの人を取り上げたかったのですが、タイミングも難しくこのタイミングになってしまいました。
しかし、ついになめがたヒストリーでもこの人をあつかう時が来たんですね。
筆者からすは感無量です☆
今回なめがたヒストリーで扱うのは内田信也です。
いきなり内田信也ときいても「誰だやぁ?」となるかもしれませんが、実はこの人、行方市出身で高校の日本史の教科書にも出てくる大物実業家であり、大物政治家です。
では、この内田信也とは一体どんな人物だったのか。
解説させていただきます。
昭和10年(1935年)の内田信也
内田信也は明治13年(1880年)に、現在の行方市(旧麻生町)の常陸麻生藩の藩士の家に生まれました。
幼少時代を麻生で過ごした後に上京し、麻布中学校を卒業後、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業します。
明治38年(1905年)に三井物産に入社し、会社で出世していきます。
まぁ、今でいうと田舎から出てきて東京の大手に入って、出世コースにのったエリート商社マンですね><
大正3年(1914年)に三井物産を退社し、退職金と親類からの借金を元手に神戸に内田汽船を開業します。
第一次世界大戦(1914~1918年)で、ヨーロッパでの造船需要が高くなっていた所に造船した船舶を輸出しまくり、会社を設立して1年で株の配当金60割という驚異的な数字をたたき出して大会社に成長させました。
内田信也はこの一年足らずの間に、約200万円(今でいう約100億円)にもなる莫大な利益をものにし、大富豪になりました。
この頃の日本は第一次世界大戦には参戦していましたが、主に戦場であったのはヨーロッパだったので、日本が戦場になって被害を受けることなく船を作り続けられたことが、内田汽船の大儲けできた理由であろうと考えられます。
内田信也はこの1年で大もうけした後に、インタビューでこのように答えています。
記者「だいぶ儲かったでしょう?」
内田「だいぶ儲かったろうって? なに、儲けるのはこれからだよ。」
野心溢れる事業家としての内田信也の心が見てとれます。
これ、インタビューで本気で言っていますからね><
やはり事業家はこういう人でなくてはいけないですね(笑)
この後も内田汽船は成長を続け、山下汽船と勝田汽船と合わせて三大船成金と呼ばれます。
日本史用語なのですが船成金とは「造船業などで将棋の駒が、成金になるように急に成長して財をなす」ということです。
内田信也は本当に大金持ちになります。
この大金持ちエピソードとして、内田信也には次のような話があります。
内田信也が列車の転覆事故に遭遇し、外に出られなくなってしまった時に救助の人に言った言葉です。
内田「俺は神戸の内田だ。金はいくらでも出す。助けてくれ!」
後に内田は、金を出すと言っていないと自伝で語ってはいるのですが、こんな話が飛び出すくらいの大金持ちだったのだから凄まじい話です。
さて、こんな内田信也も成金は成金。
第一次世界大戦が終了するころに造船事業がピタッと止まり、会社は大変なことになります。
日本史の教科書で習うのは「第一次世界大戦が終了したと同時に、船成金は没落した」ということなのですが、内田信也はこのピンチもすり抜けます。
他の船成金とは違い、その財力を味方につけた内田信也は政界に多くのパイプを持っており、不況の予兆をつかんでいました。
その情報をもとに、第一次世界大戦が終了して1年ほどで内田汽船の事業の大部分を売りさばき、財産を現金化しました。
このことで内田信也は、第一次世界大戦後の船成金の没落を免れます。
第一次世界大戦の戦後の不況を何とか乗り切った内田信也は、大正13年(1924年)に一念発起。
かつてからの政界との太いパイプを利用して、立憲政友会より公認を得て国政に出馬し、見事当選して衆議院議員となります。
政界に進出してからは犬養毅内閣の逓信事務次官を経たのちに、岡田啓介内閣で鉄道大臣として入閣します。
その後、昭和18年(1943年)に官撰で宮城県知事に就任したのちに、昭和19年(1944年)に東條英機内閣の農商務大臣として入閣します。
東條英機内閣で戦況が厳しくなる中、内田信也は農商務大臣としては食糧問題に積極的に取り組みました。写真はその時に故郷である旧麻生町の米を視察した時の写真です。
内田信也は東條英機内閣の一員ではありましたが、近衛文麿や吉田茂などと協調し本土決戦論に抵抗しました。
故郷の旧麻生町の米の状況を視察する内田信也
内田信也は戦後、GHQに公職追放されます。
しかし、内田信也は政界に戻ることを諦めませんでした。
公職追放解除後の昭和27年(1952年)に自由党から立候補し、衆議院議員に再び当選。
第5次吉田茂内閣(有名なバカヤロー解散の後の内閣)で農林大臣になり、大臣としての職を全うしました。
その後も、明治海運の会長などを歴任し、日本海運界におけるドンとして激動の日本を生きました。
内田信也は70歳になる年の昭和27年に、自伝『風説五十年』の前書きでこのように語っています。
過去七〇年の人生を振り返ってみて、僕ぐらい社会の多方面に接蝕し変化の激しかった人間は、まず少ないのではないかと思う。
三井船舶部のサラリーマンから独立して営業に乗り出し、忽ちにして船成金となり、また清貧となり、政界に飛び出しては衆議院議員を振出しに、海軍省、逓信省、鉄道省の各役所を駈けめぐり、戦時中は地方長官、農商省の飯を食い、終りには貴族院議員に納り、時には刑事披被告人となり、晴れては「人格高潔、清廉潔白」などと、類例のない賛辞を浴びて無罪になったこともある。
この間、政界にあまた知己親友を得て、その裏面をうかがい、太平洋戦争に当っては同志相寄って、極力これが阻止に努めたが果さず、ついに祖国を救い得ず、敗戦後は追放者の一人として閑居している次第だが、思えば一巻の「人生劇場」である。
内田信也は一巻の「人生劇場」というように自らの人生を回顧していますが、本当に激動の人生だったと思います。
その後、内田信也は昭和46年(1971年)にその激動の人生を閉じます。
享年90歳。熱く激しい人生でした。
今では行方市で、こんな政治家がいたという事はあまり語られていません。
80代以上のお年寄りが知っているくらいでしょうか。
しかし、かつて行方市が輩出した、こんなにすごい偉人がいた事には間違いないわけです。
言うなれば普通のサラリーマンが巨万の富を築いた後に、国政で大臣まで務めたわけですから。
エピソードを見ても、今の時代で言うならば超肉食系男子。
言葉の一つ一つから自信と熱を感じます。
こんな勢いのある人物がまたこの行方市から輩出されることを祈って、今回のなめがたヒストリーは閉じたいと思います。
・麻生町史編さん委員会『麻生町史 通史編』(麻生町教育委員会 2002)
・内田信也『風説五十年』(実業之日本社 1951)
・国立国会図書館 近代日本の肖像
・行方市教育委員会 生涯学習課
※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。
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